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2008年4月にefigo(SNS)に載せた記事の一部改変して転載します。
被害者・被災者そのご遺族の方のことを考え、ネットに出さないようにしてきた話ですが、
阪神・淡路大震災から14年…。記憶が薄れる前に書き留めておきたくなりました。

1990年代前半に私は、大阪市にあった財団法人淡水魚保護協会(現在は解散)へ、
年に数回ほどお邪魔し、会員でもない私を木村英造理事長は、とても優しく接して下さいました。
私がどんな魚よりもウシモツゴが好きで、本気で欲しがっていることを理事長は察して下さり、
芦屋市の某団体が琵琶湖分化館(現:琵琶湖博物館)から譲り受けたものを飼育していたため、
掛け合って下さいました。そして私はウシモツゴを分けて頂ける運びとなりました。

1995年1月16日に名古屋市から芦屋市へ行きました(約2時間半)。某団体のYさんは、
ご自宅の水槽で飼われていました。夢にまで見たウシモツゴをそこから分けて頂きました(感謝)。
1995年1月16日17時過ぎに芦屋駅から電車に乗り、私とウシモツゴは名古屋市へ帰着しました。

1995年1月17日5時46分に大地震。私は自宅で寝ていましたが、こちらでも震度3の揺れで、
起きてしまうほどでした。朝にテレビを見ると、とんでもないことが起きているようでした。
芦屋駅が潰れた悲惨な映像を見て驚きました。大地震の約12時間前に私は芦屋駅にいたのです。

Yさんに電話が繋がったときにはお店とご自宅は潰れ、お祖母さんがお亡くなりになられたと…。
この付近は気象庁によると震度7だったそうです。その後に仮設住宅でお話を伺いましたが、
ウシモツゴの水槽は壊れて全て死んで、辛うじて池に放流したものだけが残ったそうです。

私は不謹慎にも命拾いしたと思ったと同時に、もしかして、ウシモツゴはこの大地震を察知し、
私を芦屋市まで呼び寄せ、名古屋市まで非難させたのではないのか。私にウシモツゴを守れと
言っているのではないか。これは運命ではあるまいか。こんな想いを強く持ちました。
それから私はウシモツゴの保護にも関わるようになりました。

Yさんから頂いたウシモツゴは繁殖に成功しました。その実績で愛知県のウシモツゴ生息池が、
工事で悪影響が出る恐れがあり、私が代表してウシモツゴを緊急避難することになりました。
このとき水槽を数えたら27本もありました。また、鳥羽水族館の学芸員の方から、
三重県のウシモツゴを保護したが、3年間も産卵してくれず、首が飛びそうだと懇願され、
私は産卵データと産卵床(植木鉢など)を持って行きました。帰りにジュゴンにも触らせてもらい、
良い想い出になりました。ウシモツゴはなんとかその年に産卵成功したようです。

Yさんから頂いたウシモツゴは、成魚だったにも関わらず、寿命の約2倍近く生きました。
写真のテトラフィン(赤色の筒)が乗っている水槽にその4匹がいます(1999年4月15日)。
よく見ると筒状の陶器の中に1匹見えます。このウシモツゴは岐阜県養老町産だったのですが、
この場所は水路工事と、長良川河口堰を推進した、和田吉弘先生のとんでもな保護対策で、
現在は絶滅しました。その養老町の生息地は木村理事長や内山りゅうさんから頂いた資料から、
濃尾平野で最後に残された堀田(田舟型)だと判ったのです。そしてこの堀田について調べ、
細谷和海先生にご指導を頂き、魚類自然史研究会で発表と会報に載せることになりました。
ウシモツゴが平野部から絶滅した原因は、この堀田消滅にあるという内容です。

数匹のウシモツゴがきっかけで、過去と未来が必然的に繋がるような不思議な出来事でした。
お気を悪くされた方がおられましたら、ご指摘を頂ければ速やかに、この記事は削除致します。


追記 2015年1月17日
阪神・淡路大震災から20年。○や某を減らして、読みやすく変更しました。